J 「心にかければ重荷にならない日勝り月勝り。神様まかせの信心になれば氏子ま かせの信心になる。」
昭和五十七年三月九日 朝の御理解
x御理解 第四十節 「重い物を負うておるか担いでおれば苦しいが、そうでないから 信心は楽じゃ。家業を勤め勤めするがよい。」
先だってから0少大会のテ-マを頂きたいというてまいりました。0少にしては少し難しいと思ったんですけれども、頂いた事はz『教会と共に育とう』という事であった。昨日も今度、青年大会をいたしますので、青年会長、まあ、大会テ-マを頂きたいというてまいりました。やっぱり同じく『教会と共に育とう』であった。
おかげ頂いて教会は、まあ、それこそ日勝り月勝り年勝りにおかげを受けております。量の手においても、又、信心内容の上においても、いよいよ合楽理念の完璧をめざしてお互い信心をさせて頂いておるのでございます。
そこで信心させて頂くその目当てという事がね、はじめからはわかりませんけれども、だんだん信心を頂きわかるようになりますと、やはり自分が中心でなくて、いうならば、自分本意の信心から神様本意の信心がでけるようになってくる、ね。
これは氏子が神様本意になれば、神様が氏子本意になって下さる。これは確かに、三代金光様の御教えに頂いておりますように「氏子が神様まかせなら、神様が氏子まかせになると仰せられますから」いわゆる氏子は神様本意なら、神様も又、氏子本意になると仰せられますからというふうに頂いてもいいと思うんですよね。
だから、信心がわかるとか育つとかという事はその辺の事がわかる事だと思うんですよ。とにかく、自分の苦しい事、自分の願い事だけが、いっぱいであってね、他に手がでらないといったような信心が、いつまでも続いておっては信心のお育てを頂いておるとは言えません、ね。だんだん信心がわかってまいりますと、ね、いわゆる、神様を中心とした、いうならば、お教会中心にした信心がでけるようになる、ね。
一にも神様、二にも神様、三にも神様と、まあ、これは、合楽でも言われます事ですけれども、ね。そういう生き方、自分という者が出て来ない。神様本意とはそういう事だと思うんです。
毎朝総代さんがここでお届けをなさいますね、もう、本当に合楽の総代さん方のお届けはもう、実感をそのままに、一人々がこうお取次を願われますね。
これはまあ、皆さんもそれを毎朝聞いておられるわけである、ね。第一、いわゆるお教会の事、お教会としての願い、ね、いうならば、親先生の願いが世界万国津々浦々にというね。いわゆる教会の願いね。教会長である私が芯として、教会の祈り願いとしてです、世界万国津々浦々に和賀心時代が、ね、十三日会の精神が、放生会の信心が、もう世界万国津々浦々に拡がってまいりましたら、どんなに世界の平和な事にいうならば歓天喜地である。喜びの天、喜びの地、人間世界にそういう、いうなら、おかげが頂けるようにだんだんなったら、それこそ、神様の願いである。
昨日、私のお夢のを聞いて頂いたがz『沢山の役者さん達が、井上正夫という役者さんを団長にして』というあの御理解、ね。
いうなら、世界中の氏子が、ね、和賀心時代、和賀心時代と願い、ね、十三日会の精神、神様の願いが成就する事の為に、人間諸々様々な難儀の元をたどると、結局はね、そういう難儀を負わなければならない元は自分自身に。難儀の元は自分にあるね いうならめぐりの所為であるという事がわかってくる、ね。そこに気つかせて頂いて、心から今迄のわからなかった事とはいいながら、わからなかった事の天地に対するお粗末御無礼などの御礼、御詫びをさしてもらうようになる、ね。
放生会というのは詫びれは許してやりたいのがもう、親心で、もう神様がもう、その詫びてくれればおかげはやれれるのにと、こう思っておられるような感じがしますね。口だけの詫びではいかん。心から改まって詫びるという事。ねえ、ここである十三日会がね、神願成就の為にね、もう、いよいよ今日一日は神願・・・ね。
普通一般は私共の願いを成就さして頂きたいと願うけども、今日一日くらいは神様の願いが成就する事の為にという信心に入っていったら、ね、昨日の沢山な役者さん達の場合はね、一切、私共の上に起きてくる様々な問題の様相というものを、思う時に、天地の親神様が一人々に、いうなら筋書きをなさった、いうなら、お芝居のようなもんだ。その神愛がわかり、神願がわかったら、そこに素晴らしい今・・・・。
難は霊験といったような神愛有り難しと神願有り難しと受けていけれるような、心の状態が、それこそくの一会じゃないけれども、自由自在にでけるようになる。
もう、これは神様が書きおろされた筋書きというものは、もう絶対その生き方で、自分の名演技いかんによって、必ずラッキ-セブンに終わるのだと。
神様がお書きになった筋書きというものはね、けども、沢山な役者がおるけれども沢山な氏子はおるけれども、そこに気づいてわかった者はというものは本当にわずかであるという事。その中でも、なら、合楽で合楽理念に基づく生き方あり方というものは,今、合楽で願われておる、ね、和賀心時代を世界に、十三日を、又、放生会を世界万国津々浦々にと、例えば総代さん方が願われるその願いをもっておる者は、もう、本当にわずかだろうとこう思うんです。
ですからそれが、自分の神情ともなり、ね、それが自分達の信心であるというところまでは、ね、信心を育ってそこからは限りない信心の進展というか、お育てを頂く事がでけるようになると思うんです、ね。いよいよ、なら、教会と共に育とう。
教会が日勝り月勝りにおかげを頂いておる。そのお教会の御比礼に便乗さして頂けれる、乗っていけれる信心を頂きたい。それは私本意の信心から神様本意の信心になる。そういう心の状態が開けてくる事によって頂けれるおかげだと思うんですよね。 昨日熊本の松村さんが参拝してみえた。二、三日前があちらの熊本地区の共励会であった。その朝大変もう医者は難しいようにいうような咄嗟(とっさ)の病気というわけですかね。身体が動かんように、電話かけようと思えば電話のところに行く事も出来なければもの言う事もでけないというような状態であったという。
それが夜の共励会にはおかげ頂いたというておかげ話のでけるところまでおかげを頂いた。朝主人がお夢を頂いておった。それは田植えをしておるところであった。
ところが、田植えのその田んぼの一番奥のところへもう、それこそすさまじい・・大変な大きな檜の木が一本という皆さんに先だって聞いて頂いたんですけどね。
そういうお夢を頂いておった。もう、とにかく死ぬか生きるかといったような事を神様はお知らせ下さってある。けれども、そういう時にこの檜一本である大きな檜。 これを、まあ、いうならば、合楽教会というふうに頂いてもいいでしょう、ね。
檜というのはあれは、神の木とも言われます。神様、ね、もう、お道具なんか全部檜ですね。その、いうならば、合楽一本にすがっておかげを受けよというお知らせを頂いた。ところが、まあ、お取次を頂いてお願いをしておかげを頂いたけれども、その後、どうも身体が順調でない。それで昨日もお医者に行ったら、まあ、後のそういう一つの後遺症的な、ああいう、まあ、死ぬか生きるかといったようなところまでいっとっただから、やっぱ養生する事にしたというお届けが昨日、参ってきました。
そして昨日の朝、実は親先生こういうお知らせを頂いたというのです。
z大きなよくテレビなんかで宣伝してます何とか大きなハムがあるでしょう。大変高いものですねあれは。大きなハム、そのハムを買おうと思うて買いに行ったところが誰からかそういう贅沢なものは、買うなあというお声があったそうです。それで、その、はっと思うて買わずに帰ったお夢でしたというのです。
皆さんどういうふうに思いますか。丁度その松村さんがお届けをする前に林さんがお届けをなさいました。そしてそのお届けに十五年の記念祭、そのまあ,いろんな事業やらがあります中に、御造営費完納のおかげを頂きますようにというお届けを毎朝総代さん方のお届けの中から聞かせてもらう。自分もそれに奉讃させて頂こうと決心化粧品も使うまい、ね、いうなら贅沢なものは買うまい、布一寸買うまい、そういういうならば修行に入られた。ところが、これは先日でしたけども、御主人がこの化粧せんようになりましたら、お前この頃えら-い顔色が悪いぞと言うて心配して下さる そいから私申しました。だから、まあだあなた若い、いうならば、お化粧もせんちいうような事は御主人に対してでもいけん事、そげな事はやっぱいかんばな、ね。
やっぱ主人に心配かけるような修行はいかんからというてまあ、申しましたけれども、ね、いわゆる布一寸買わんとか、又はその食事の上にでももう、とにかくその日のあればあるもの、お野菜ですむならお野菜ですむ、いうなら、お惣菜作りという事を工夫させてもろうてお願いをする。ところが、不思議な現象が最近ございますというのである。ある方が着物を下さる。又は、家族の者がもう、今日はいよいよ何にもないからほんお野菜づくめでと思って作った時ほど、今日の菜はおいしかった-と皆が言うてくれます。いわゆる不思議な現象である。
布一寸買うまいという者の上に、いうならば、衣食住の徳、と言われるその衣の徳がもうついてきよるのである、ね。いうならば、今日は魚を買おうと思う時にあッ,今日はもうお野菜でというて家にある物でお菜を作った時ほど家の者がね、そういう今日のお菜はおいしかったというて喜んでくれますというように、おかげを心にいうならば、十五年の記念祭の事に向けさせて頂くようになりましたら、思いがけない、御造営費のお供えが出来ますというお届けであった、ね。
今日の御理解じゃないけども、心にかけるという事ですから、重荷にならないでしょう、ね。しかもね、そういう思いの中には、必ず喜びが頂けるです。
私は昨日皆さんに聞いて頂いた、真に有り難しと思う心というようなのはね、神様の事を思い思うて、教会の事を思い思い続ける時に頂けれる喜びというのがあるんです。喜ぼうとして喜ばれるものじゃない。それこそ、神様の喜びがこちらの金光大神に反映するかのようにして頂けれる喜びなんです。ですから私、その事を松村さんに話ました。ね、あんた方が、なら、御造営なら御造営という事にどれだけ心を使うているかと。そりゃ参りよるたんびにお初穂をお供えしよるけんでとかいっようなこっちゃなくて、ね、そこにです、いうなら、そしたらその後でした、秋山さんが昨日は小倉行でしたからお届けに見えた時にもう、本当に私もそう思います。御造営の事について、とにかく自分の心に・・・・その事を思い続けよ親先生から頂いて、そのことを思い続けておりましたら、ね、確かにおかげが受けられるという事を今日なさいました。私、今日の御理解はね、私はその荷物にはならん、と重たい物じゃない、只自分の心の中にしかも苦しい事を思うのじゃない、嬉しい事を有り難い事をその思いが神様に通うて帰ってくる喜びの頂けれるような思い方をするという事がもち荷にもならん、しかも喜びである徳にも力にもなる、御用もでけるというようなおかげの頂けれる事を私は、思い続ける事だと思うです、ね。
まとまって、こうやってお供えしょうと、ま、思うておる人もあるかも知れませんけど、それも結構ですけれども、日々その事を思い続けて、それはわずかなものであってもそれが積もり積もって、しかも沢山な人の、私、集まりがでけて願いが成就していくという事が、私は神様も喜んで下さる事だと思うですね。教会と共に育とうという事は、そういう内容の事ではなかろうか。0少の大会にも青年大会にも同じ、いうならばテ-マである。神様の願いである。教会が衰徴しておるならどんこんでけんばってん、教会は日勝り月勝りにおかげを頂いとるから教会と一緒にお前達もね、それに便乗する、して日勝り月勝りのおかげを受けてくれよという神様の願いであるね だからその願いが成就するようなおかげを頂く為には私本意から神様本意の信心。 お教会を中心としたような信心がだんだんでけてきわかってこなければならんね。 そこに私は、尊い、いうなら修行もでけて持ち荷、重荷にもならない修行がでけてね。自分も有り難い、神様も喜んで下さる、御用もでけるというおかげになってくるのじゃないでしょうか。
これは昨日、0少と青年買いの大会テ-マが教会と共に育とうとい事であったが、なら、教会と共に育つとい事こそ教会を中心に神様を中心にした生き方、思い方の信心からでなからなければ、教会と共に育つという事はでけないという事を、これは、まあ、たまたま丁度、松村さんと、ま、林さん、秋山さんのお届けがこう、三つ続いておりましたからそのこと聞いて頂いたわけですが、皆さん思わにゃいけんです。
毎朝、総代さん達のいいよってつば聞いとるだけじゃでけん。それが自分の信心の上にも頂き現されていかなきゃ、ね。
無理な事を言うのじゃない。そういう、いうなら、有り難い思い方がでけるところに有り難いおかげも又、頂けれるんだという事であります。
どうぞ。